クズ野郎でもってクズ野郎を観察する
本作でなされたのは人の内側の観察だ。それを意識させるために、疑似的なドキュメンタリーの形式が取られ、手持ちのカメラで撮影されている。障害者を演じる集団は様々な人の内面を明らかにしていく。タトゥーのイカツイ人たちは面倒見がよく優しい心の持ち主で、上流の生活を贈る夫人は、偽善者を装いながら夫に本心を耳打ちする。
グループのリーダーであるストファーが激昂する場面、彼は役人の内面の悪に触れることで心がおかしくなる。同情を装いながら近づいてきた役人は、実はカネで厄介払いをしようとしていただけだったのだ。役人の中にあったのは、”愚かさ”だった。そしてそれは崇高な精神を語りながら、単に障害者をマネるゲームをするストファー自身に突き刺さり、彼を怒らせた。
“愚かさ”をグループの人間は内側に隠さず、外にまとっている。愚者のフリが愚者を引き出すのである。
本物の障害者と対面して
本物の知的障害者とグループの人間が対面するシーン。これは即興で撮られていて、役者たちは演技をすることを忘れ、自身の中に沸き起こる罪悪感に葛藤する。人は無意識のうちに何かを差別し、そしてそれを自覚することで苦しみ続ける存在なのだ。誰も自分の心の内の差別から逃れることは出来ない。
だからこそ劇中の人物たちはに、障害者になり続けるのだ。そこに罪悪感は無い、彼ら自身が差別される存在なのだから。そしてそれは精神疾患を抱える自分と向き合うきっかけにもなった。
ラストシーンの意味
終盤では自身の中の”愚かさ”を、本来の生活基盤で実行出来るかテストが行われる。しかし彼らは内面をさらけ出せない。自分たちの生活を壊してまで、愚者であり続ける熱意なんて、あるわけがなかったのだ。
しかしカレンは違った。なぜなら彼女には、息子の葬式から逃げ出した自分を罰する必要があったからだ。作品を通してみてきたように人は内面と外面が分離した存在で、形だけ夫に謝って元の生活に戻ることは簡単だっただろう。彼女はそれを良しとせず、自分がそれまでに学んできたものを表現し、自分の生活基盤を破壊した。彼女の反省が求めていた相手は、夫ではなく子供だったのだ。カレンは“愚かさ”でもって自分を罰したのだ。
そしてこの場面は無意識に差別してしまう罪悪感から、逃れることが出来ない人生の苦しみを明らかにしている。差別される側の存在にはなれず、自我を失うことは出来ないのだ。
アート映画に功績
『イディオッツ』(1998年)での性的に過激な表現の使用はアート映画における「振り」でないセックス描写の流行をもたらした
引用:Wikipedia
このように強い影響力を持った映画である。セックスを忌むべき存在から、人間が繰り返した美しき営みへと転換したのだ。緑の中を裸で走る彼らの姿は、創世記のアダムとイブの物語を思わせる。真に純粋な心を持つ人として、創世記の二人と障害者たちの姿が重なる。人の心が純粋だった聖書の世界から、今に至るまでの人の営みに想いを馳せるからこそ、その表現には本物のセックスが必要だった。
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