【インド映画『RRR』の5つの見どころ】ダンスに込められた意味

ラージャマウリ監督作品『RRR』の見どころを解説。インド映画特有の言語の壁や、リアルタイムのインド事情から見る『RRR』のポイントとは?
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①至高のアクション映画だった『RRR』

1人VS10,000人、橋からの飛び降り、動物を使った逆襲、プログレッシブ騎馬戦。『RRR』はラージャマウリ監督を始めとして、制作陣の方々のアイデアが多数盛り込まれた最高のアクション映画だった。相手が10,000人でも超能力を使うわけではなく、リアルに1人ずつ打ちのめして減らしていくラーマ。あるいは冒頭で狩られていた鹿の恨みを晴らすべく暴れる、虎や鹿などの動物たち(当然自分にも襲い掛かってくるが…)。「水 、森、大地」を味方につけたビームのカチ込みアクションは、まさに世界レベルだった。その他にも、森の中での虎との戦い、多数対2人の暗い森の中での闘争。素晴らしいシーンばかりだ。

肩車をしているシーンは上に載っているラーマをワイヤーで釣って表現しているそうで、本当にアイデアがすごい。

②ヨーロッパ中心主義へのカウンターとしての『RRR』

アート、音楽、映画。あらゆる分野で西洋由来のものは、それ以外のものよりも優れているとする『ヨーロッパ中心主義』という考え方がある。この主義が、アフリカ大陸や南米大陸、オセアニアからアジアまで、各地域の先住民を「文化的に劣っている」とみなし、植民地支配を生み出した

しかし、そもそも文化に優劣はない。

西洋由来のダンスだけが全てではないと言わんばかりに踊る二人は、さながらシヴァの化身である。インド映画の「お約束」であるダンスを、ヨーロッパ中心主義への強烈なカウンターとして繰り出してくるとは。

個人的な話もさせてもらうと、インド映画の話をする時、初めから「どうせB級なんでしょ?」とか「なんか踊るんでしょ?」とか小ばかにする感じで決めてかかってくる人も多いような気がしている。そういった人たちも、ある種のヨーロッパ中心主義、あるいは自文化中心主義に毒されているのではないだろうか。『RRR』はそういった人たちにもカウンターになるような、世界レベルの大作だと思う。

③インド独立運動のある側面にスポットを当てる『RRR』

インド独立運動と言えば、マハトマ・ガンディーが掲げた「非暴力・不服従」が非常によく知られている。塩の専売に反対して起こった「塩の行進」では、ガンディーが約386kmもの道のりを行進し、インド中に非暴力運動が広まっていった。

しかし本作『RRR』では、ガンディーとはまた違う側面のインド独立運動の英雄たちを取り上げているのである。ビームのモデルとなったコムラム・ビームは、ゴンド族の指導者として武装蜂起し、「Jal, Jangal, Zameen(水、森、大地)」というスローガンを掲げ、自らの権利を守るために戦った実在の人物である。彼は反乱の象徴として、ゴンド文化の中で神格化された。

もう一人の主人公であるラーマのモデルは、アッルーリ・シータラーマ・ラージュという人物だ。彼もイギリスの圧政に抵抗し、2年もの間ゲリラ軍を率いて戦った。後にインドの初代首相となったネルーにより、「ラージュは、五本の指に入るほど数少ない英雄のうちの一人だ」と評されているほどの人物だ。

恥ずかしながら筆者は『RRR』を観るまで、インド独立運動と言えば「ガンジーと非暴力」をイメージするほど無知であった。しかし実際には各地域ごとに様々な形でイギリスの圧政に抵抗しており、それが人々の希望となっていたのである。語られる歴史と語られない歴史があり、本作は後者にスポットライトを当てたのだ。エンディングでは各地域の英雄たちが紹介されていく。彼らの詳細や、そもそもどういった意図があるのかといったところは『RRR』公式パンフレットに詳しいのでぜひご参考頂きたい。

④インドで起こっている分断と『RRR』

インドでは2014年にテランガーナ州という新しい州が、アーンドラ・プラデーシュ州から独立した。この二つの州は、現在も政治的に険悪な関係にあるそうだ。実はテランガーナ州の独立に影響を与えたと言われるのが、同地域で英雄視されるコムラム・ビームだ。また、アッルーリ・シータラーマ・ラージュはアーンドラ・プラデーシュ州の出身であり、本作はリアルタイムで険悪な関係にある二つの州の英雄たちが、手を取り合って協力する映画と言えるのである。

二人が肩車をするシーンは、日常シーンではラーマが下、戦闘シーンではビームが下。火と水という対照的な象徴を背負う二人は、平等に支え合いながら、大きなことを成し遂げていく。現に対立関係にある二つの州の方がこの映画を観たら、当事者としてどんなことを感じるのだろうか。

本作で主に使われているテルグ語は、この二つの州に共通する言語である。テランナーガ州の州都・ハイデラバードを拠点にしたこれらの映画を「トリウッド(Tollywood)」と呼ぶが、同州独立の際には社会情勢の混乱から、新作映画の配給がリスケジュールされるような状況になっていたという。『RRR』の主人公2人は、テルグ語映画の大家であるラージャマウリ監督の、地域融和に向けた祈りが込められた人物造形となっている。

⑤多言語映画(汎インド映画)としての『RRR』

通じないはずのテルグ語の歌でデリーの市民を沸かせる名シーン

そもそもインドには英語を含めて30を超える言語があり、2000以上の方言がある。言語が違えば、言葉は通じない。そのためインドでは通常、自分の母語で制作された映画を見ることが多いそうだ。ヒンドゥー語話者はヒンドゥー語映画を、タミル語話者はタミル語映画を見るということになる。また字幕は敬遠される傾向にあるとのことだ。

ラージャマウリ監督は前作バーフバリ』で、汎インド映画(はんいんどえいが)という手法を世に広めた。テルグ語で作った映画を、ヒンドゥー語やタミル語など様々な言語に吹き替えて、同時公開する手法である。こうすることにより、インドの各言語話者たちが一つの作品を鑑賞することが出来るのだ。相反する属性を持つ主人公2人の友情を描いた本作が、インドにおいて様々なバックボーンをもって暮らす人々の団結を願った作品だと考えれば、この多言語展開は非常に効果的な手法と言えるだろう。

ちなみに『バーフバリ 王の凱旋』はこの手法を通じ、インド国内における興行収入の記録を大幅に塗り替え、第1位となっている。

おわりに

『RRR』は様々な願いと驚異的なアクションを引っ提げて、世界に放たれた矢だ。公開から1か月以上たった今でも、筆者が鑑賞した劇場は満席だった。とてつもない影響力をもって、トリウッドここにありと改めて世に示した超大作である。(インド映画と言えばボリウッド、だけではないのである。)

特に言語の事情はインド映画特有で、面白い。ビームとラーマやシータがすぐにが仲良くなったのはヒンドゥー語圏内でテルグ語で話していたからだろう。思い返せば反イギリスの集会のシーンでは、ラーマがあえてテルグ語で「総督を殺す」といって通訳にヒンドゥー語で訳させていたが、あれは同じ地域のテルグ語話者をあぶりだすためにわざとそのように言ったのだ。このような複数の言語を使った表現は、インド映画ならではである。

(ヒンドゥー教徒の間では禁じられている牛を食べる)ムスリムに変装していたビーム。ビームが忍んでいたムスリムの家で、同じ大皿のビリヤニを囲むビームとラーマ。あのシーンもインドの方からすれば、宗教を乗り越えて(禁じられた牛肉という)同じ釜の飯を食う友情を表したシーンだったのではないか。

筆者がコルカタに旅行に行った際、現地でホラー映画を見たことがある。映画の中で登場人物は、ナチュラルにベンガル語と英語で話しており、特に字幕もついていなかった。多くの言語が併存するインドでは、英語+母国語を話せる人も多く、映画に対する言語の取り入れ方も独特だ。また『RRR』はインドの二大叙事詩の影響を受けており(ラーマとシータという夫婦が登場する叙事詩「ラーマーヤナ」はよく知られている)、インドでは多くの人が知っている物語が根底に置かれている。

このように『RRR』は言語や物語の背景に一筋縄ではいかない要素のある映画で、だからこそ知れば知るほど面白いのである。続編が作られそうな終わり方だったが、ぜひ続きも見てみたい。その際はまた記事を読みに来てください。それでは。

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