映画『きみの色』のあらすじ
映画『きみの色』のキャスト
主人公たち3人に声を吹き込んだのは、1600人を超えるオーディションから選ばれた鈴川紗由、高石あかり、木戸大聖という若き役者たち。彼女たちが演じる等身大の高校生を導くシスター日吉子の声には、新垣結衣が抜擢された。そのほか悠木碧や井上喜久子、芸人のやす子などが参加。
『けいおん!』と異なるバンド像
本作を作り上げた山田尚子監督は、かつてアニメ『けいおん!』を監督したことでも知られている。『けいおん!』と『きみの色』の違いから、作品の特色を考えてみよう。
3人が演奏するのはシンセポップやニューウェーブ
両方を観られた方ならわかるだろうが、これら二つの作品では「バンド」のイメージが全く異なる。『けいおん!』ではアニソン調でありながらも、ギター・ベース・キーボード・ドラムというスタンダードなロックバンドのフォーマットが採用されていた。一方で『きみの色』では、そもそもドラムやベースがいない。編成としてはギター・キーボード・テルミン(+オルガン)に打ち込みのビートが加えられている形だ。
もちろんロックの要素が無いわけではないのだが、いわゆる紋切り型のロックバンドではないことは明らかで、実際に作品を観られてその曲調に驚いた方も多いのではないだろうか。お互いに録音をやり取りして、PC上で曲をブラッシュアップさせていく流れは何とも現代的でリアリティがあるように感じられた。
ニューオーダーとしろねこ堂
往年の音楽マニアたちも驚いただろう。ライブシーンで1曲目に演奏された「反省文〜善きもの美しきもの真実なるもの〜」のアレンジはおそらく、イギリスのバンドであるニュー・オーダーの曲調が強く意識されていると思われる。
引用元が分かるように冒頭のバスドラムの音を完全に一致させていることも注目いただきたい。音楽好きな山田尚子監督らしいが、イギリスでロックとテクノの融合を実現させていったニュー・オーダーを選ぶのは渋い。このジャンルはニューウェーブと呼ばれ、当時停滞していたロックの「新しい波」として急激に社会に広がっていった。
色の重ね合わせとしてのニュー・オーダー
作永きみが持つギター・リッケンバッカーやOrangeのアンプもイギリスのロックバンドたちが愛したものだ。そういったきみの「ロック」に影平ルイが電子音楽である「テクノ」の要素を重ねる。まさに作中であった色の重ね合わせのイメージ。ロックとテクノを重ねたニュー・オーダーが、作品のテーマと合致したのだろう。緑と青が重なる地球のイメージに繋がっていく。
バラバラのジャンルを演奏することで描かれる個性
最もキャッチーな楽曲である「水金地火木土天アーメン」は、一転してバンド・相対性理論やパスピエの音を想起させるポップな曲調。いわゆるペンタトニックスケールが多用されたギターからは、ニューウェイブの気配はしてこない。つまり、全く違うジャンルの曲が短いライブシーンの中で演奏されている。これもバンドをテーマにしたアニメではすごく珍しい演出だと思われる。なおギターを弾いたのは相対性理論でもギタリストを務めていた永井聖一。
この映画ではバンドは一つの目的に向かってすすむ一心同体な存在ではなく、それぞれの個性が自らの色を発揮できる場所として描かれている。ライブシーンで演奏される3曲はそれぞれのキャラクターが作詞作曲したという設定で、全く違うジャンルになっている。
そしてバンド・しろねこ堂は決してみんなで売れようとしているわけではなく、文化祭での演奏が終わった後は、それぞれの人生に戻り、メンバーたちも分かれ道に立っていく。その後の彼女たちの未来は、ほんの少しノベライズ版で描かれているものの、決してバンドで売れるぞ!というものではない。
こういった描かれ方のバンドアニメ、今までなかったと思う。バラバラだったメンバーが同じ色になっていく物語が多い中で、それぞれの色を重ね合わせることで面白さが生まれるというアイデア。バンドを通じて、淡い青春が浮き彫りになっていく。
トツ子の色は何色だったのか。
自分の色が分からないと言っていたトツ子は何色だったのだろうか。実はライブシーンの直後で自分の色を見つけていたトツ子。大好きだったのに強いコンプレックスを持っていたバレエ、人目がある中庭で下手ながらも踊りと向き合い、楽しめた瞬間に、自分の色が分かったのだ。
トツ子の色は淡い赤色で、じつはアニメのキーヴィジュアルでもトツ子は赤色で描かれている。
光の三原色、三人集まって光になる
この三人の色は「光の三原色」と呼ばれる組み合わせだ。赤と青と緑、3人の色を組み合わせると「光」になる。山田尚子監督は、真っ白な色に無限の可能性を見ていて、三人が合わさったときの無限大な感覚を感じていたとのこと。
光のイメージとキリスト教
そして光と言えば、トツ子が信仰するキリスト教のイメージとも重なってくる。映画の中ではあまり語られなかったが、主人公・日暮トツ子は熱心なキリスト教徒である(毎朝協会にいたり、聖書の言葉を暗記していることで示唆されている)。ヨハネの第一の手紙に「神は光であって…」と出てくるようにキリスト教においては光は神と同一視されている。神が与えるのは何か。ゆるしである。
作中でトツ子が思い悩んでいたように、聖書では「偽り」を言うことは禁じられている。そのような罪をおったものに神が許しを与える儀式が告解である(ゆるしの秘跡・懺悔ともいう)。告解とは罪を告白すること。罪を告白することで、神がゆるしを与える。
教会のシーンで与えられた許し
3人集まって教会で合宿をし、それぞれが抱える秘密を打ち明ける。きみは学校をやめた理由(周りに対して自分のキャラクターを偽っていたこと)を、ルイは自分の家のことやバンド活動を親に隠していることを、そしてトツ子は自分のコンプレックスである色が見えることと、バレエが上達しなかったことを。光の三原色が集まり、教会でそれぞれの秘密を告白し合うという、意味が重なり合った屈指の名シーン。
そしてゆるしは人の心を軽くする。合宿のシーンでは恥ずかしがって途中でやめてしまったバレエを、人の目を気にせず踊れるようになったときトツ子は自分の色を認識することが出来た。
特にトツ子の心理描写が多く出てくるノベライズ版を読んで思ったのは、のんびりしているように見えて、常に大きなコンプレックスを抱えながら暮らしているということ。バレエが上手くできなかったこと、帰省をしないことで周りから奇異の目で見られていること、いろんな他者のまなざしがトツ子を苦しめ、輝きを失わせる。そういった他者のまなざしを気にせず、中庭でバレエを踊れるようになったとき、トツ子は自らの輝きに気づく。そう解釈した。
きみはなぜ学校をやめたのか
きみが学校をやめた理由については、明確には語られていない。ただ、ノベライズ版や今後描かれるであろうコミック版では、トツ子の考えたきみが学校をやめた理由が語られている。
実際に映画を見た方も感じただろうが、きみはどちらかというと目立たず生きていきたいと考えているタイプだ。学校をやめた後のシーンをみると口数は少なく、積極的に人とコミュニケーションを取ることもない。私服は兄のおさがりという設定でオーバーサイズ気味。文化祭の日に着ていたロックなジャケットもきみの趣味ではない。一方できみの兄はどんな場所でもうまくやる人気者で、おばあちゃんも兄のことが大好きで。
そんな兄へのコンプレックスもあり、人前に立つことは自分の性に合っていないという感覚もあり、そういった低い自己評価の中で、学校の花形である聖歌隊の部長に選ばれてしまう。周りがおもう人気者で優秀なきみと、自分自身が思う姿がどんどん離れていく。周りの期待、重責、プレッシャー。そういったものにつぶされそうになって、衝動的に学校をやめてしまったのではないか。でも逃げた先にあったのは開放ではなく、罪悪感と虚無だった。抜け落ちた何かを埋めるようにギターを手に取る。
ルイの旅立ちを見送るきみの疾走
実は引っ込み思案のきみだからこそ、バンド結成時から気になっていたルイへ告白することが出来ない。きみの恋心を察したトツ子が、ルイの旅立ちの日と場所を調べて、港について行ったのに、きみは直接言葉で想いを伝えることが出来ず、顔を合わせることを避けてしまう。
だが出港の時、自分の中の衝動がきみを走らせ、叫ばせる。見事なまでに描かれた「青春」だった。
おわりに~なるべく言葉以外で表現する
「きみの色」を傑作たらしめているのは、山田尚子監督が重視している「セリフに頼らず」物語を描いていくという手法。表情、指の動き、体の動かし方、そして音楽。彼女たちは多くを語らない。それぞれの秘密を胸に抱え、等身大の存在として描かれる。一方でこの細やかな描写は、「きみの色」を分かりづらくさせている部分もあると思うので、自分の感じた良さを書いておきたいという思いがあり、この記事を作った。
何度も映画を見て発見していくというのも一つの選択肢。そして、自分が感じたことの答え合わせをノベライズ版やコミカライズ版でするというのも良い選択だと思う。これらの媒体ではトツ子の心理描写に力が入れられており、このシーンでトツ子はこんなほの暗い感情を抱えていたのか…!と驚かされるばかりだ。もし2回目を見に行く予定がある方は、ぜひ一読してからをおすすめする。トツ子の心理がどのように映画の中で身体表現としてあらわされているかがわかり、より一層「きみの色」を楽しめる。
映画では描かれなかったシーンも多数あり。
コメント