映画『きみの色』のネタバレ有レビュー
山田尚子監督初となるオリジナル劇場アニメ『きみの色』。どうしても1回の鑑賞では受け止めきれないところがあったので、ノベライズ版を読んだ後に2回目を観に行った。それでわからなかったところも色々と腑に落ちたので、レビューを書いていく。
最大のテーマは「他者との距離感」
「きみの色」を考えるにあたって一度読み返しておきたいのが、山田尚子監督の企画書からの抜粋。
この企画書の内容を見てから作品に触れるだけでも、受ける印象はかなり変わってくるだろう。多くの映画では、どのような起承転結が描かれるかに重点が置かれ、そこでドラマが演出される。『きみの色』においては、そういったドラマティックな起承転結は重点がおかれない。例えばバンドの商業的な成功や、何らかのコンテストなどで優勝するといった劇中での行動を通じた「大きな成果」は意図的に描かれていないと感じた。それらの要素の代わりに描かれたものは何か。
山田尚子監督の言葉を借りれば「清潔さを保つための距離感」である。
それぞれの行動を思い返してみよう。きみは学校をやめたことを祖母に言わず、そして祖母もきみが休日何をしているかまでは踏み込まない。トツ子は3年間同じ部屋で過ごした寮の友人に、自己の内面を打ち明けず、そして友人たちもトツ子の様子がおかしくても深く聞いたりはしない。トツ子のスタンスを表したのがきみが寮に忍び込んで、一緒のベッドで眠るシーン。「きみちゃんが言いたくないことは、聞かないよ」、とトツ子はきみに伝える(もちろんこれは、その前に白猫堂の前で「何かあった?」と何度もきみに聞いてしまったことへの、ある種の釈明でもある)。
どうだろう、心理的な距離は縮まっていると言えるのかどうか。
水金地火木土天アーメン-秀逸な「惑星」の例え
心理的な距離の遠さ、決して本音ではぶつかり合わない関係性を表すように、トツ子の作り上げた歌では、きみが「太陽」として描かれ、トツ子自身が歌うパートで「私は惑星」と宣言している。人が色を纏っているように見えるという、トツ子の共感覚とも連動した、秀逸な例えである。
しかしきみが作った歌「あるく」では、他者との距離は全く異なった形で描かれている。「光」を与える存在=太陽ではなく、そばに咲く花でありたい。これはある意味「水金地火木土天アーメン」に対する強烈なカウンターともいえる。
「太陽」ではなかったきみ
学校では聖歌隊のリーダーを務め、スポーツも勉学も優秀な「太陽」だったきみ。だが学校をやめたあとの様子を見ると、本来は他者とのコミュニケーションを積極的に行うほうではなかったことが分かる。そのギャップは、きみを自主退学へと向かわせたのだが、トツ子の中では依然としてきみは「太陽」だったのである。
ここに狂おしいほど切ない行き違いがある。
だからこそトツ子はきみへの踏み込みを避ける。そしてきみも生来の自分の引っ込み思案な性質から、自己の内面を開示することができない。相手にひかれたくない。嫌われたくない。そんな思いが二人の関係性を深め切らないまま、物語は進んでいく。
きみがルイに抱く恋心とその結末
きみは当初よりルイに恋心を抱いており、その内面は言葉にこそされないものの行動で描写されている。きみがルイへ恋心を抱いていることをトツ子が察していく様子や、ルイの旅立ちでついに言葉にしたきみの想いについては、本編では描かれずノベライズ版に描写されているという渋い構成。
先ほど書いたように、トツ子はきみに一定の「清潔な距離」を保っているので、ルイへの恋心を尋ねたりはしなかった。ルイの東京の大学への進学によって、3人の関係性が展開していく。それが東京へ船で旅立つルイを見送るシーンだ。
本来であれば、きみがルイに告白をするような場面である。しかし秘めてきた想いを打ち明けるどころか、勢いで告白してしまわないように、見送る直前まで行っておきながら船の前までいかないという切ない距離感を保つきみ。内面に踏み込まないまでも、このままではきみが後悔するのではないかと、心配そうにするトツ子。告白しないだけでなくかなり想いを裏に隠した描写になっていたので、映画の中では非常に分かりづらく描かれていたこれらのシーン。だが、このあとバケツの水があふれる。
全力疾走と絶叫
ルイを乗せた船が出港しようとするなかで、ついにきみが「清潔な距離感」をぶち破って船に向かって堤防を全力疾走する。この時、きみは今までずっと気にしてきた「相手にどう思われるか」はきっと意識していない。自らの内に燃える想いに突き動かされるように、「がんばれ」と叫ぶのである。
素晴らしい丁寧さで描かれた、現代の若者の青春像。
そしてこの場面の直後、海に落ちそうになるきみをトツ子が抱きしめる。ほんの数秒しか描かれないが、本来は接触するはずのなかった惑星と太陽がぶつかり合う、彼女たちの関係の深化を表す重要なシーンである。実はこのシーンで、トツ子はきみにかなり踏み込んだ質問をするのだが、それもノベライズ版でしか描かれない渋さ。
なるべく言葉を使わずに丁寧に描写された物語
恐らくこの映画は、もっと説明的なセリフやシーンを追加すれば、よりエンタメ的に楽しめる映画になったはずだ。だが、山田尚子監督はその選択をしなかった。キャラクターの行動、動作、セリフの行間、そして歌詞に彼女たちの現状と成長をにおわせる要素が詰め込まれていた。
それらの難しい表現を徹底的に追求した作画監督の小島崇史氏と制作にあたったサイエンスSARUは、本当に素晴らしいクリエイターだと思う。
ルイはアロマンティック・アセクシャルなのか
作中でとりわけ内面描写が少ないのが、島に住まうバンドメンバー・ルイだ。これはそもそも物語の大半がトツ子の視点から描かれており、きみ以上に「清潔な距離感」を保ってトツ子がルイと接していたからだろう。
だが、きみからルイへの恋心はそれと分かるように描かれていた一方、ルイから他のメンバーへの恋心は描かれていなかったと思う。むしろ「二人に対する恋愛感情がないこと」が明確に打ち出されていたように思う。それは謹慎明けで久々に島にやってきた二人にルイが抱きついたシーンから明らかで、抱き着かれたことにより強く相手を意識してしまうきみと、全く意識していないルイが対照的に描かれる。
だが、男子高校生が何の照れもなく女子高校生に抱きつけるか、抱き着くまでは勢いがあったかもしれないが、抱き着いた後はふつうちょっと照れたり意識したりするんじゃないだろうか。そうすると、あの場面では、ルイがアロマンティック・アセクシュアル(他者に対して恋愛的、性的指向を持たない人)な存在として描かれているのではないかと考えた。だとすれば、きみとルイは別の角度からも結ばれることのなかった存在として考えられるだろう。
物語のその後と「きみの色」の特異性
いわゆるバンドもののアニメ映画と「きみの色」の大きな違い。彼女たちはバンドとして売れようとしていない。トツ子は修道女になるために進学を決めているし(無断外泊で推薦が取り消されかけたところはシスター日吉子のファインプレーで回避した)、ルイは島を守る医者になる決意を固めて東京に進学する。きみも自らの人生を再度「あるく」ために行動をおこす。
ニーバーの祈りにあったように、変えることのできるものと変えることのできないものを識別できるように成長した3人。変えることができないものの中に、きみとルイの関係が入っていたのが切ないが、告白ではなく「がんばれ」というエールだったことが、結果的にトツ子ときみの関係を深めることに繋がる。
だが、お互いに迷惑をかけたくない、嫌われたくないと考えている3人の関係はその後どうなっていくのだろうか。ノベライズ版では、東京進学後もバンド活動を続けたいルイと、勉強がいそがしいであろうルイに気を使うきみやトツ子の様子が描かれている。「清潔な距離感」を保ったままだと、きっとバンドは解散してしまうだろう。だが、ここで山田尚子監督の企画書の言葉を思い出してみよう。「「好きなものを好き」といえるつよさを描いていけたらと思っております」と、監督は語っていた。ノベライズ版や今後コミカライズ版で描かれるであろう、エピローグ後のルイの行動についてはネタバレになってしまうので記載を控えるが、きっとこの3人の関係はいつまでも続いて行くだろう。
おわりに
『きみの色』は色々な角度から考えることができる、本当にすごい映画だと感じている。今回は距離感の観点から考えたが、「色」「音楽」「キリスト教」などからも別の解釈をしていくことが可能だろう。またアニメーションとしての表現も非常に丁寧で、ワンシーンワンシーンに魂がこもっていたように思う。
そして心情を吐露するシーンを極端に少なくしたことで、キャラクターのこころの内側を観客が想像するような仕掛けになっている。これが観客に「清潔な距離感」を追体験させる。
ただ、この物語の中で起きる出来事は、決して大きな事件ではない。バンドが出した曲が大ヒットするわけでもなければ、誰かの命が失われたりするわけでもないし、恋愛が成就するわけでもない。なんだったらメンバー同士が喧嘩するシーンすらない。負の感情は内に秘められたままになっている。そのため、この映画の良さを考えるにあたっては、観た側もどんどん面白いと感じた部分を相互に共有していくことが必要になるのではないかと考えた。いわゆる口コミで広まる的なやつだ。
どこが面白いと思ったかをどんどん発信していってファン同士でコミュニティを創り上げていくことが、この映画が後に多くの人に届いていくことにも繋がるんじゃないかと思う。もしよかったら下部にあるコメント欄にもなにか感想を書いて行ってください。
それでは。
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