【ネタバレ考察】『天気の子』は『君の名は。』が進化した映画だった

2019/7/19公開の新海誠監督最新作『天気の子』のネタバレ有考察・感想

『天気の子』

前作『君の名は。』のヒットから3年。ついに新海誠監督の新たな作品として『天気の子』が世に送り出された。多くのアニメ監督が直面するのが、ヒット後の次作をどう仕上げていくかという問題だ。宮崎駿『崖の上のポニョ』高畑勲『かぐや姫の物語』のように芸術性を志向していくか、細田守『サマーウォーズ』のようにエンターテイメントに徹するか。

私の感想として『天気の子』はその中間を狙い、『君の名は。』を発展させた形になっていると思う。だからこそ本作には、『君の名は。』に勝っている部分がある。そして後述する時間的な制約から、後一歩というところで留まってしまっている部分もあるように感じられた。順番に解説していきたい。

『君の名は。』に劣らないエンタメ性・映像

本作は『君の名は。』のエンタメ性を承継している。それは新海誠と共に前作を作り上げたRADWIMPSをもう一度迎えたことからも明らかである。『君の名は。』の流れでヒットするように、前作の「売れた要素」をもう一度再現しているのだ。

ゲスト出演的に登場する『君の名は。』のキャラクターたちも、『天気の子』のエンタメ性に拍車をかけている。実際に観た方はお分かりだろうが、夏休みに見るにはうってつけの映画であり、口コミが強大だった前作ほどではないにしろ、安定してヒットする作品だと思われる。

そして前作から受け継がれたような、息を呑む映像の美しさと、それによって生み出されるリアルな東京とファンタジーの両立。最初の30分で、私たちは新宿のただ中に送り込まれる。素晴らしい映像表現であり、これだけでも観客は満足できてしまう。新海誠は前作がヒットした理由を、正確に分析している

では『天気の子』は『君の名は。』の焼き直しなのか、決してそうではない。

一歩進んだ自由主義

『君の名は。』は三葉と瀧の恋愛を犠牲に、多くの村人の命を救う映画である。新海誠は常に、良いことと悪いことのバランスを取ろうとする監督で、彼の作品中では何かを得るためには必ず何かが犠牲になる(その典型例が4作目『星を追う子ども』である)。自然の摂理を捻じ曲げ、村人の命を救うかわりに、三葉と瀧はお互いに関する記憶を失うのだ。

ラストシーンで再開したとしても、それまでの記憶は決して蘇らない。

これを踏まえて『天気の子』は、多くの日本人を犠牲に帆高と陽菜の恋愛を成就させる映画だと言える。『君の名は。』における瀧と真逆の選択を、帆高は取るのである。そこにあるのは世界を救う愛ではなく、世界を滅ぼす愛。究極の利己主義だ。全体最適をすっ飛ばし、自分たちさえ良ければ良い、天気なんか狂ったままで良いと、力強く叫ぶのである。

青臭い。だからこそ良い。

そこにある多くの犠牲に後ろめたさを感じながら、帆高は生き、陽菜は祈り続ける。

本作が伝えたいメッセージ

二人の若者に重い十字架を背負わせる映画を、新海誠が私たちに見せたかったとは思えない。だからこそ終盤で須賀は「大人」として、子供のままの穂高に語るのだ。「この世界は元々、狂っている」と。だから深く考えずに、自分のやりたいように生きろと。

降り続ける雨と陽菜に関連性があるのか、断言は避けられる形になっている。そして私たちが生きる現実も、よく考えれば分からないことだらけである。だから深く考えずに、自分が良いと思ったことをやれ、そう新海誠は語るのだ。

だとすれば「愛に出来ることは」なんだったのか。愛は帆高を常識から解き放ち、利己的に、自由に行動させる原動力となったのである。

キャッチャー・イン・ザ・ライ

この項目は小難しいので読み飛ばしていただいても大丈夫です。

家出当初の帆高が読んでいる本は、村上春樹訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」である。世界一売れた青春小説であり、今なお多くの若者に影響を与え続けている一冊だ。主人公・ホールデンの三日間の家出を回想するもので、帆高の状況と通じる。 タイトルの「キャッチャー・イン・ザ・ライ(=ライ麦畑のキャッチャー)」は、作中でホールデンが自分がなりたいものを語る一節に由来する。

とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない――誰もって大人はだよ――僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ――つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっかから、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。 引用:Wikipedia

「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は子供と大人の違いに着目し、子供の持つ無垢さをテーマにした小説である。上記の比喩は、子供の純粋さを失わなければ大人になれず、そうなれないものは社会から脱落してしまうということを暗に示している。

同時にホールデンは、ライ麦畑の崖からドロップアウトしていく純粋な子供である。同様に帆高も、社会に溶け込めない子供である。愛する人を守るために東京を海に沈め、恩人に銃を向ける。決して大人のすることではない。

社会の輪の外にいるからこそ、同じく社会の犠牲となりかけた陽菜を、救うことが出来た。帆高はライ麦畑のつかまえ役になったのだ。

賛否を生む結末

少年の青臭い青春活劇は、観客が大人であればあるほど、受け入れがたいものとなる。新海監督はその点について予測していながら、それでも完全なるハッピーエンドを描かなかった。東京が沈まない結末はあり得なかったのである。彼はエンタメ性ではなく、メッセージ性を取ったのだ。

そこで伝えられるメッセージは上述の通り、「若者よ、自分勝手に生きろ」ということだ。

こうして『君の名は。』のエンタメ性を受け継ぎながら、賛否を生むメッセージ性を含む『天気の子』が生まれたのである。

しかしこの作品には、惜しい部分もある。

時間的制約と細部の甘さ

『天気の子』は7月に公開されなければならなかった作品だ。劇場を出た瞬間、まだ映画が続いているかのような感覚に陥った人は、私だけではないだろう。梅雨から夏に切り替わっていくこの季節に、克明に描かれる東京の姿を見れば、現実とリンクさせてしまうのは当たり前である。

この効果を狙うためには、どうしても7月中に公開しなければいけなかった。野田洋次郎は6/28時点で驚きの事実を明かしている。

なんと公開1ヶ月を切っても完成していなかったのである。

完成したのは7/7、ギリギリのところでなんとか公開にこぎつけた。上記の理由から7月公開というのは譲れなかったのだろう。しかしこの時間的制約が、脚本に詰めの甘さを生んでしまう。

ライムスター宇田丸氏指摘の欠陥

私が映画を見ながら感じていた違和感を、初めに指摘したのがライムスターの宇田丸氏である。一言でいえば、銃のくだりいらなくね?ということになる。

快晴によって世界を救い、その代償として天に昇ってしまう陽菜。彼女を救う物語であるならば、障害もその能力にまつわるものにするべきだ。

銃を持った高校生が自分の意見を通すために発砲し、真面目に働く警察官を傷つけるのは、愛ではごまかせない純粋な悪である。何らかのポリシーがあればまだマシだが、ただ拾っただけの銃である。

陽菜が命と引き換えに東京を救うことには不条理さとやるせなさが感じられるが、帆高が銃を拾って発砲してしまい、警察に追われるのは当然である。そこに擁護の余地はない。

それにも関わらず、まるで警察が陽菜の命を救うことを妨害しているような描写になっており、関係者全員で警察を食い止める流れになる。全くつながっていない。

『天気の子』は天気を巡る壮大な話だ。しかし主人公の前に立ちふさがるのは自然の驚異やファンタジー的ななにかではなく、銃刀法違反なのである。 この脚本の詰めの甘さは、ストーリーそのものを崩壊させかねない違和感を生み出しているのだ。

選択に伴う犠牲がない

帆高の陽菜を救う選択がこの映画の色を決定づけているとすれば、その選択に伴う犠牲が一切描写されていないのは気になる部分である。陽菜は天気を晴れさせるために命を犠牲にした、須賀は帆高を救うために警察官に殴りかかり子供との時間を犠牲にした。では帆高は?

東京を沈めるという選択が重すぎて、それに値する犠牲を描き切れなかったのであろう。帆高が銃を拾ったことから多くの問題が始まっているのに、彼は特にこれといって目立った罰を受けていないのだ。他の場面、他作品と比べて違和感がある。恐らくここは詰め切れなかったのだ。

おわりに

新海誠の最新作『天気の子』は『君の名は。』の発展形であった。しかしその時間的制約から、あと一歩という作品になったことも否めない。せめてもう少し時間があれば。しかし公開中長引いた梅雨はこの映画に味方したように思われるし、『天気の子』は2019年の映画としてはNo.1のヒット作品だった。新海誠監督の次のキャリアへと結びついていくはずだ。次作にも期待したい。

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