明日菜がアガルタを旅する理由
明日菜はなぜアガルタを旅するのか。彼女がアガルタ人と地上人の混血児であることが理由の一つだろう。地下世界から聴こえる歌に惹かれたように、アガルタに惹かれていったのだ。彼女が混血児である根拠は、父親の形見がクラヴィスの欠片だったこと、そして交わりを嫌う夷族(いぞく)が森崎を無視して明日菜だけを狙ったことで分かるようになっている。
しかし彼女の血だけが冒険の理由じゃない。親友もおらず、唯一の肉親である母との信頼関係を気付けていない明日菜にとって、短い間とはいえシュンと心を通わせた経験は忘れがたいものだった。だから彼女は「シュンを失わないための旅」に出るのだ。物語後半で夷族に囲まれた明日菜は気づく。「ただ寂しかった」からアガルタに来たことに。彼女は認められたかったのだ。「生まれてきてくれてよかった」とシュンに祝福されたことが嬉しくて、その喪失を埋めるために旅をしていたのだ。
シンをシュンと見間違い、疑いが抜けきらぬまま旅は進んでいく。彼女の中ではシュンが生き返る可能性もまだ残っている。そのどちらも消え、シンとシュンの違いを認識した瞬間、彼女はシュンの死と向き合ったのである。終盤で彼女が死を悼み涙を見せる場面から、この旅は父親を幼くして亡くした彼女が、大切な人の死と初めて向き合う成長物語だったことが分かる。
タイトルの意味
『星を追う子ども』という謎めいたタイトル、ここには複数の意味が込められている。「星を追う」という言葉の通り、明日菜は星を追いかける。空に浮かぶあの星ではなく、私たちにとって一番身近な地球を。だからこそ、彼女たちは地球の一番深いところを目指して、世界の果て「フィニス・テラ」へとたどり着くのだ。
そして同じく「星を追う子ども」であるのがシュンだ。病で老い先短い体を酷使しながら、地上世界を見るという夢を叶えた少年は、満天の星空の下で死んでいった。シンが「生死の門」の向こう側で「これが星空!?」と叫んでいることから、シュンが星空の話を弟としていたことを匂わせている。
英語版のタイトルは”Children who Chase Lost Voices from Deep Below”、意訳すれば「深い底から聴こえる、死者の声を追いかける子供たち」という意味になるだろう。僕たちは死んだ人を星に例える。そういう意味でシュンを取り戻そうとした明日菜や、妻を取り戻そうとした森崎も、「星を追う子ども」なのだ。
森崎は明日菜の父親になりきれなかった男だ。親子のような信頼関係を結びながらも、最後には彼女の信頼を裏切り、自分の目的を優先する。「人を生き返らせてはいけない」という道徳ではなく夢を追いかける姿勢は、「地上に出てはいけない」という禁忌を破ったシュンと重なる。森崎もまた子どもなのである。
子どもと大人
この生と死をめぐる物語は、大人の在り方に疑問を呈する構造になっている。なぜ「愛する人を生き返らせてはいけないのか」。その答えに道徳以外の理由で答えるのは難しい。ミミが死ぬ場面で、涙を流すのは子供であるマナだけだ。この姿はシュンの死を悼み泣く明日菜やシンと、あるいは人生をかけて愛する人の死に抗おうとした森崎と重なる。
シンの言葉を借りれば、現世での命の儚さを知りすぎているために滅びようとしているアガルタの人々は、まさしく死を達観する大人の姿だ。僕たちも年齢を重ねるごとに死が身近なものとなり、そして鈍感になっていく。それは生ける死人だ。だからこそアガルタ人は死者の着方と同じ右側が前に来る合わせ方で、着物を纏っている。しかしラストシーンでシンの着衣は、左側が前に来る生者の着方になっていて、人間らしさを取り戻していく。
この映画において、成長するとは必ずしも正しいことではないのだ。しかし子どもであり続けることは出来ない。だからこそ森崎は右目を失い、シュンは死んだ。シンは帰る場所を失って放浪の旅を続けることになる。子どもであり続けるという理想を追い求める難しさは、そのままアニメ監督である新海誠の姿とも重なってくるだろう。しかし彼はある意味で抵抗し続けた、同じく死者の復活を願う「君の名は。」でも彼の闘争が伺える。
おわりに
ジブリをオマージュし、比較されてきた本作。しかし単なる成長物語ではなく、一方で子供のまま生き続けようとする森崎やシンがいるのが、「星を追う子ども」とジブリ作品の大きな違いだろう。そしてその違いはジブリとは全く違うアプローチでヒットした「君の名は。」へと繋がっていくように思う。
U-NEXTで見られる(PR)
U-NEXTの無料トライアルを利用すれば、『星を追う子ども』が見れる!興味がある人はこのリンクをクリック!『星を追う子ども』の他に、約80,000作が見放題!U-NEXTでは、2020年4月30日まで配信中。
コメント