崖の上のポニョは実験作
『崖の上のポニョ』は宮崎駿最大の実験的作品だ。まずこの前提に沿って解釈をしていこう。2008年7月31日の読売新聞で、本作の音楽を担当した久石譲は、宮崎駿から「死後の世界」「輪廻」「魂の不滅」というテーマを、子供の目には単なる冒険物語と見えるように音楽で表現してほしい、と依頼されたと語っている。
これが解釈の最大のヒントになる3つのテーマだ。子供の目に楽しい物語として映るなら…大人の目には?ポニョの持つなんら邪悪さのない純粋な愛が、世界が滅ぼすという恐怖を感じさせられる。
しかしこの物語は、子供が見る前提で作られている(試写会の時点でたくさんの子供が招待されている)ため、そういった設定がわかりづらく作られている。もし子供が本作の内容をしっかりと出来てしまったなら、トラウマになってしまうかもしれないからだ。それでは、そのわかりづらさの原因から書いておこう。
起承転結が無い
この物語の最も実験的と言える部分は、起承転結がないことだ。例えば主人公である宗介とポニョが、嵐の過ぎ去ったのちに自分の家で目覚めるシーン。外に出ると、自分たちの住む街は海の底にあり、庭には見慣れない古代魚が泳いでいる。
本来ならこの変わりように至るまでに何らかの伏線があってもいいはずだ。しかし本作ではその変わり目と言えるものが意図的に無くされているので、宗介とポニョはなんら驚くことなく、巨大化したポンポン船で、宗介の母親・リサを探す航海に出てしまう。
眠ることで周りの景色が大きく変わるという展開は、普通ならば起承転結の”転”にあたる部分だろう。そして最も大切な部分と言える”結”も、消化不良のまま早足で過ぎ去ってしまう。こういう制作スタイルを取ったのは2つ理由がある。
- 難しい伏線が無くてもわかる物語を作りたかった
- 作品の背景にあるものが多すぎて説明しきれなかった
1.は明らかに子供を意識したもの。知っていて当たり前の前提が無くても勢いで楽しめるアニメを作ろうとしたのだ。そして2.で書いた通り、この映画は様々なものを踏まえて作られており、全てを説明すると映画自体の長さが膨大になってしまう。もし2時間を超える映画を宗介と同じ5歳児が見せられたとして、集中力を保っていられるだろうか。大人は自力ついてきてくれという、宮崎駿の意思を感じる。
そしてこの作品の背景には人魚姫や北欧神話など、古典的な物語が使われているが、それらの多くには起承転結が無い。これも理由の一つだろう。それでは「死後の世界」というモチーフを掘り下げていこう。
街が沈んだ後に出会う3人家族
ポニョの不思議さが際立つ印象的なシーンが、宗介がポンポン船で航海中に初めて出会う家族だ。彼らは宗介のことを一方的に知りながら、5歳児2人が巨大なローソクを動力とした船で移動していることに、ほとんど触れない。それどころか、小さなローソクを手渡す。この大災害時に、いったいそんなものが何の役に立つというのか。
2008年の掲示板などの書き込みを見ればわかることだが、公開時に発売されたパンフレットには、この夫婦が「大正時代の人」として紹介されている。リサが黄色いナンバープレートの三菱・ミニカトッポに乗っていることを思えば、明らかにポニョの世界は現代だろう。それなのに、奇妙なまでに古臭い服を着ている。
古生代の生物がウロウロする時空で、現れた死者たち。あの赤ん坊の瞳は何を訴えかけているのか、宮崎駿は決して語らない。本作で最も謎に満ちたシーンの始まりである。
大漁旗を掲げた船団
いわば不気味な夢の中ともいうべきこの場面に、次に登場するのが大漁旗を掲げた船団だ。災害時とは思えないほど陽気な彼らを、勇壮なマーチが見送る。「山の上のホテル」に向かっているという。彼らの振る舞いも奇妙で、街全体が沈んだ悲壮感もなく、なぜか5歳児の冒険を見送る。
臨死体験者の語る定番エピソードとして、あの世とこの世の間にホテルがあり、そこで自分が生きていることに気付き戻ってきたというものがある。これを踏まえているのが、「山の上のホテル」というものだろう。上にあるものといえば天国、あの世なのだから。
一瞬だけ写る半ば沈んだ「山の上ホテル」の看板は、宮崎駿が私たちに与えたヒントだろう。じゃなきゃわざわざ、こんな誤解を招くものを海に沈めるわけがない。いわば三途の川の渡し船の船団とすれ違っているわけだ。しっかりと鳥瞰で「山の上ホテル」にたどり着いた面々が描写される。決してこの「死後の世界」というテーマは、観客である子供たちにバレてはいけない。
とにかくこの異常事態にまるで普通のことのようにふるまっているのはおかしい。そして彼らを救助するヘリはやってこない、それがやってくるのは…全てが解決するラストシーンなのである。
ポニョの口づけ
ポニョは口づけによってなにかを与える。宗介の傷が治ったのも口からだった。であれば、この場面で赤ん坊に与えた意味深なほおずりとキスは何だったのか。ポニョは善悪の判断が付かないが、赤ん坊の心は読めるようである。
この大正時代の夫婦が死者であるなら、ここで赤ん坊に与えようとしているのは死だろう。作中では何度も3のモチーフが繰り返される。リサのナンバープレートは3が3つ。水道・ガス・電気の確認。船の上で渡すサンドイッチの数。そしてラストのグランマンマーレによる3つの問いかけ。3は神話などに登場する調和のとれた数字である。
この3人家族を安定させるには、全員を同じ状態にしなければならない。しかし赤ん坊の泣き声が示すのは、その産声を連想させる”生”である。だからこそポニョは、死を与え泣き止ませる。死とは最も安定した状態であり、いわば極楽浄土へ向かう途中なのだ。だからこそ大漁旗を掲げた船団にも、笑い声が絶えない。同様にポニョに口づけを与えられた、赤ん坊も笑顔を浮かべるのだ。そしてポニョはここで力を使い果たし、直後に眠ってしまう。
ブリュンヒルデ
中盤、フジモトはポニョのことをブリュンヒルデと呼んでいる。どうやらそれが本名で、ここにもう一つ神話が下敷きにされていることが分かる。ブリュンヒルデは、北欧神話に出てくるワルキューレの中の一人であり、困難を乗り越えた人間と結婚することで人間となる。ポニョの原型だ。
そしてブリュンヒルデを含めたワルキューレとは、日本語に訳せば「死体を選ぶもの」という意味になり、いわば北欧神話における死神なのである。
ろうそくを吹き消して、親離れ
その名前がポニョに与えられていることを思えば、ポンポン船のろうそくを吹き消すシーンなど、まるで死神のように見えてしまう。そしてろうそくが象徴するのは、宗介の父親である耕一の命だろう。いわば父親の力を借りながら進んできた宗介は、ここで完全に拠り所を失い、父と別離することとなる。
そしてその直後に空となったリサの車を見つけ、宗介は完全に両親と別れ独り立ちすることになる。これが宗介がラストシーンで、一人の男として判断を下したという理由づけになっているのだろう。
並んだ車いす、不気味なBGM
その後のシーンでは、海の底に沈んだひまわりの家が描かれ、もののけ姫に出てきたような神秘的で、不気味な印象を与えるBGMが流れる。歩けるようになったおばあちゃんたち、これもポニョが持っている治癒の力の影響だろうか。しかし彼女たちは気になる会話をしている。
ついに口にしてしまった。しかし断言はしない。この花々咲き乱れる極楽浄土では、やはり人々は楽しそうだ。死に対する宮崎駿の感覚がわかる。彼は別れを恐れてはいるが、死を恐れてはいないのだろう。
そしておばあちゃんの一人が発言する「リサさん つらいでしょうね」という何気ない言葉。これに関しても宮崎駿は一切説明しない。しかしこの時リサとグランマンマーレの背景だけがクラゲの陰で黒くなっており、やはり死を暗に示している。その後の会話はこうだ。
これは本作ラストの試練、「ポニョのすべての姿を愛する」ということ、を受けてのものだろうか。しかし失敗してポニョは泡になってしまったとしても、地球は元に戻るのだ。どこかこの会話はズレていないだろうか。
やはりこれは息子を先に残して死んだ母親と、それを慰める人々のセリフにしか見えない。ここは死後の世界なのである。もう一つ、これを実証できる論拠がある。
宮崎駿が制作に苦しんだシーン
トキさんとの抱擁シーンだ。NHK見てた人にはわかると思うけど、宮崎監督はあのシーンを描くときになんかすんげぇ悩んでいた。今までの映画ではあれだけストレートに愛だの美しいだの結婚しようだの叫んでいた人がだ。抱きつくだけならドーラの時みたいにあっさり抱擁していると思う。宮崎監督が迷っていたのは、向こうの世界に母を連れて行くかどうか、だったんじゃないだろうか。
NHKのドキュメンタリーで『崖の上のポニョ』の制作現場が特集された際、宮崎駿が苦しんでいたのが、フジモトに追われた宗介が海から、ひねくれたお婆さん・トキの元へジャンプする場面だ。二人は抱き合ったあと、フジモトの水魚によってひまわりの家に送られる。トキは「プロフェッショナル」によれば、宮崎駿の母をモデルとした人物である。一人だけ妙にリアルなお婆さんで、端役だったはずの彼女が突如、準主役級の活躍を見せる。
トキは宗介を抱きしめながらポニョと口が接触する。宮崎駿が頭を悩ませたシーンに、意味のない描写を入れるわけがない。やはり赤ん坊の時と同様、生と死の境界を越境させるには口をつける必要があるらしい。そこにかけつけるのが、ポニョの妹であるワルキューレたち、つまり死神だ。ここに実の母親をあの世送りにすることになった、宮崎駿の苦悩が見て取れる。だからこそ制作で詰まったシーンだったのだろう。
クラゲは再生の象徴
卵を割り、生物は生まれる。またポニョも、3度ガラス瓶/シャボン玉を割ることで人間に近づく(=生まれ変わる)。同様に球体であるクラゲも、中の者たちを生まれ変わらせる卵として機能する(実際に自然界でベニクラゲは若い個体に”生まれ変わる”ことで、不老不死を実現している)。だからおばあさんたちも生まれ変わり、若返っているため、地上に戻った際には足が治っている。
そして地上で宗介たちを迎えるのは正常化した世界だ。救助ヘリが空を飛び、大漁旗を掲げた避難船などない世界。最後にわざわざおもちゃのポンポン船を手渡しにくるフジモト。宗介が元の親子に戻れたことを象徴的に示している。つまりこのヘリが空を飛んでいるシーンまでの間、宗介とタキ以外の全ての登場人物は死んだ状態にあって、ここでようやく生まれ変わり、全ては元に戻っていくのだ。ここで久石譲に与えられたテーマの一つ「輪廻」が思い起こされる。
おわりに、ラストの口づけ
最後に宗介はポニョと口づけをして終わる。魔法の世界で口づけによって人を越境させたポニョは、人間の世界で宗介とキスをすることで、人となって越境してくる。いわゆるハッピーエンドにも見えるが、果たして本当にそうなのか。
人間になった後も、宗介の気持ちが揺らげばポニョは泡になってしまうのか、という答えのない問いが残されている。果たして宗介のポニョに対する愛は、彼女が宗介を想うあまり世界を滅ぼしかけた愛と、等しい大きさなのだろうか。
宮崎駿は大団円のハッピーエンドを描かないことも多い。『風の谷のナウシカ』は言わずもがなだし、呪いが解けない『ハウルの動く城』、千尋が全ての記憶を忘れてしまう『千と千尋の神隠し』、結ばれながらも別々に生きることを選択する『もののけ姫』。この『崖の上のポニョ』もどこか、そちら側に近い締めくくりに見える。死の恐怖から人間は逃れることが出来ないのだから。
本作は死を身近で避けられぬものとして描きつつ、それでも続いていく「輪廻」と「不滅の魂」に焦点を当て、大人に「愛」のもつ力とその危険性を問いかけている。
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