愛を欲する怪物の悲劇【崖の上のポニョ/宮崎駿】

様々な推察が飛び交う『崖の上のポニョ』について、ポニョの怪物性と、ラストシーンの持つ悲劇性について考察する。

大人と子供で見方が変わる

久石譲が読売新聞に記した制作秘話によれば『崖の上のポニョ』は、大人と子供で違う印象を与えるように細かく調整されている。子供からすれば宗介とポニョが大人の手を借りずに、日常を守るための大冒険を繰り広げているように見えるわけだ。

しかし大人から見たポニョは、地球を無自覚の内に滅ぼそうとする怪物である。そしてその視点は、作中の大人たちにも共有される。自分の娘が地球を滅ぼさないように奔走する魔法使い・フジモトや、ポニョを見ると怯えるトキは、私たち大人に変わる存在として振る舞う。まずは大人に恐怖を抱かせ、子供をわくわくさせるポニョの行動を振り返ろう。

ポニョは愛ゆえに人間になろうとする

宗介はガラスの瓶に詰まったポニョを救い出し、命の恩人となった。本作はポニョが宗介を愛するあまりに起こした暴走と、その解決を追う物語となる。彼女がまず目指すのは、宗介と同じ体を手に入れること。失敗してカエルのような姿になってしまうが、魚類より高等な両生類となったことで、父親のフジモトを凌駕する発揮するようになる。

生まれたばかりで善悪の判断が付かない子供が、魔法使い以上の力を持つ恐怖は、大人にしかわからない。いや大人でも、この時点では反抗期の子供のかわいらしさを感じるだけかもしれない。しかしこの時点で脅威なのに、生命の水を取り込むことで、ポニョは地球を滅ぼしかねない怪物と化してしまう

この時ポニョが逃げられたのは、妹たちの協力あってのものだ。思えば地球を滅ぼしかけた大津波も、生命の水を浴びた妹たちによるところが大きい。恐ろしい好奇心である。

高等生物となったポニョ

こうして両生類から人間となったポニョは、人間にとって大災害そのもの。発生地点でポニョの妹たちが起こした大津波に巻き込まれながら、海の上を走るポニョを目撃した耕一(宗介の父親)の心中に、驚きと恐怖が渦巻いていたはずだ。

「宗介に会いたい」という生まれたばかりの愛は、ポニョに直接的な行動を取らせる。宗介を海に引きずり込もうとするのだ。迫るポニョの妹たちや、宗介をさらう突風は、彼女の力によるものだろう。仮に海の中で会えたとして、その先に待っているのが宗介の死であることを、ポニョはまだ知らないのだ。

そしてポニョが眠った後、一旦嵐は収まる。しかし眠っている間に結界を張り、月を接近させ、そして街を海の底に沈めてしまうのである。無垢な愛が地球を滅ぼし始める。

宮崎駿最大の実験、大人/子供で感想が変わる『崖の上のポニョ』考察
『崖の上のポニョ』を見た感想は様々だ。「楽しい」「泣ける」「怖い」「ゾッとする」などなど、半ばホラー映画のような感想を抱いている人もいる。様々な解釈の余地がある本作を、より楽しむためのガイド。

前回述べたように次の日の朝の場面からは、どこか夢の中のような不思議な世界での物語が始まっていく。

大人から見たポニョ

当初、リサはポニョを車の運転中にチラ見するだけなので、そのおかしさに気付かない。そのためポニョが宗介のいう「金魚」として大人たちに見えるのかと、勘違いさせられる。しかしまやかしを破るように、老人ホームの偏屈なお婆さん・トキが、ポニョを「人面魚」と言って拒む。思えば魚状態のポニョを目撃するのは、チラ見だったリサを除けば、認知症の老人と幼稚園児だけなのだ。大人がとる正常な反応は、トキが見せているのである。

トキの予言じみた言葉

そして最初にポニョの怪物性がほのめかされるのも、このタキの強い恐れが混じる言葉である。「津波を呼ぶ」という言葉は、今後の展開を予言するようだ。もちろん言葉どおり、ポニョは大津波を呼び、街を海の底に沈めてしまう。まさに悪夢ともいえる大災害が、この段階から匂わされている。

ポニョは海の死神として育てられている

フジモトが呼ぶように、ポニョの本名はブリュンヒルデだ。そしてブリュンヒルデは北欧神話に登場する、ワルキューレと呼ばれる死神の内の一人だ。ワルキューレとは「死体を選ぶもの」と訳される、誰が生きる/死ぬのかを決め、死者を最高神オーディンの元へ連れていく役目を担う、女性たちの軍団である。

この神話の知識を前提として、大人にだけポニョとその妹たちの役割が推測できるようになっている。彼女たちは海の世界のワルキューレなのだ。冒頭でポニョが脱出したのは、フジモトがクラゲを栽培している様子を彼女たちに見せようとしたからだ。このクラゲを増やすことで、生態系のバランスを守っているのだろう。カニがフジモトの家に侵入したシーンでのセリフ「カニよけの結界が緩んでいたとは、生態系のバランスを崩すところだ」から、彼の役割がわかる。

そしてその仕事を勉強として見せられていたポニョたちは、フジモトを将来的にサポートするために育てられていたことが分かる。ワルキューレという原型から考えれば、増えすぎた生物を殺して減らすことで、生態系のバランスを保つ役割が、彼女たちに与えられるであろうことは自明だ。海の世界の死神として育てられているわけである。

死神の軍団となるべき妹たち

ポニョだけが大きく育っている理由は、恐らくクローン技術によるものだろう。グランマンマーレとフジモトの間に生まれた一人娘であるポニョを、増やし、ある意味で利用するために(冒頭のクラゲ栽培のシーンと同じだ)、妹たちが一度に生まれたからそのサイズは画一的なのだと思われる。もちろん魚のように卵で一気に産まれた可能性もあるが、それならばポニョと同い年の兄弟はどこにいるのか。彼女たち中でポニョは、リーダー的な役割を果たすのだ。

もちろん明言されていないため、これらの推測は単なる妄想に過ぎないのかもしれない。しかしフジモトが当初、人間を滅ぼし、陸の無い海だけの世界を作ろうとしていたことを思い出してほしい。彼の独りよがりな暴走こそ、この説を裏付ける最大の証拠となる。

ポニョを待つ悲劇

大冒険を終え、ラストシーンでポニョは「古い魔法」によって人間になる。その条件は「男の子の心が揺らがないこと」だ。宗介はグランマンマーレの絶妙な問いかけによって、半ば強制的にポニョへの愛を誓うよう誘導される。一瞬でも宗介が迷ったら、ポニョは泡になってしまうため、ここの展開は性急だ。

牧師のような問いかけと誓いのキスによって、人間となったポニョだが、この後宗介の愛が「揺らいだ」場合、ポニョが泡になってしまうのかは明言されない。もしそうだとしてもグランマンマーレは「私たちは泡から生まれたのよ」と、超然としているだろう。ポニョや宗介には一切説明が無い、半ば詐欺師的な所業だ(もちろん説明できる状況にはなかったが)。いわばポニョの犠牲によって、地球は救われた。

こうしてポニョは宗介からの愛無くしては生きられない存在となる。愛を追い求める化け物から、愛に囚われる人間へと変わっていくのだ。

おわりに

しかしそれは、ポニョだけに特別なことではない。古い魔法なんて無くとも、人間は愛なくして生きられない存在なのだ。これが『崖の上のポニョ』のテーマの一つなのだろう。愛は時に世界を滅ぼし、時に世界を救う。決して逃れることが出来ない存在だからこそ、まっすぐ向き合っていかなければならない。

『崖の上のポニョ』は愛に満ちている。

リサや耕一から宗介への、慈しみ育てる愛。フジモトからポニョへの過保護な親子愛。グランマンマーレからポニョへの、個を超越した愛。ポニョから宗介への世界を滅ぼす愛、宗介からポニョへの世界を救う愛。トキから宗介への隠された愛、あるいはその裏に透ける宮崎駿から母への愛。

この映画を見た子供たちがいつか大人になって、もう一度ポニョと再会したとき、なにか人生において重要なことが伝えられたら…。という宮崎駿の意思を、この作品が持つ解釈の多義性から感じられる。エンタメとメッセージを分離させ、子供に寄り添い、共に成長していく映画だ。これが『崖の上のポニョ』の独自性であり、優れたポイントなのだ。

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